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ビジネスモデル [クルマ]

外国の知人はいう。
ニッポンは、時間をより精緻にし、それで通勤時間(ラッシュアワー)をくみたて、ひとの移動を綿密にし、一斉に仕事場へかけこませる。
つぎには工程という精細なものを周到に用意して、ちいさな、けれどこわれにくいクルマを大量につくることに専念してきたようだ。
わたくしにはにがわらいするしかなかった。
みごとなたとえである。
よきにつけあしきにつけ、それが現実ではなかろうか。

ビジネスモデルという。
ひびの通勤をみていると、そのエネルギーのすさまじさにひるんでしまう。
このパワーをもしほかにつかえていたらどんなにかすごいものができあがっていたのではなかろうか。

いまさらのことでしかない。
たとえば技術学校の機械製図をみておもった。
学習の対象にクルマの部品がおおいことである。
高等学校でも自動車科がある。
このくにの方針は加工貿易などというもっともらしいものではなく、クルマ、ただクルマだけなのではあるまいか。
メーカーはつくることだけに専心していればよく、クルマにまつわること、たとえば人身事故、駐車場、道路など個々人への弊害は、くにがすべてになう。
そういう約束がまかりとおっているようにしかみえない。
いまさらのことでしかないのだけれど。


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きにしすぎ、それは高い能力 [おたがいさま]

ひとはいう。
きにしすぎであると。
きにしすぎのどこがわるいのだろう。
きになる。
きにする。
なやむ。
なやみつづける。

ちいさなことでくよくよするという。
けれど、それはちいさいことではないはずだ。
生きていくための、たいせつな、根幹にふれる、ことがらだろう。
けっしてちいさくなんかあるものか。

それはもちあじである。
きにしすぎかどうか。
だれが判断をくだせようか。
判断はつかないものだ。
きになれば徹底的にきにすればよいだけではなかろうか。
それがもちあじなのだから。

もちあじがただしいものかどうか。
それはわからない。
が、もちあじをつかいこなせば、それはもはや才能である。
高い能力である。
わたくしはそう信じる。
自戒である。


タグ:もちあじ
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第101回日本陸上競技選手権大会男子100m決勝 [陸上]

あたまは重い。
それをささえる首。
そのふとさ。
サニブラウン・ハキーム選手、ケンブリッジ飛鳥両選手の首である。
首から下へ。
ふとい体幹が、からだをつらぬいている。
かれらのはしりをみれば陸上の専門家ではないわたくしとてわかる。
からだのブレがすくない。
ゆえ、安定する。
あとは手と足を駆使してまえへまえへすすめるだけだ。

無駄がすくなく、両足だけが回転している。
まるで箒(ほうき)がはしっているようにみえる。
両手で推進力をつけ、駆動する。

たまたまではなさそうである。
なにかがかくじつにかわる。
そのなにかはわからないけれど、陸上競技のあきらかな変革ではなかろうか。
それは10秒をきるかきらないかということだけをいうのではない。
イチロー選手、野茂英雄選手、中田英寿選手を同時代にみられる幸運。
それとおなじような歴史的な快挙をみられるかもしれない。
第101回日本陸上競技選手権大会。
2日目。
男子100m決勝はきょう6月24日午後8時38分。
みのがすわけにはいかない。



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なぜちびっこはサッカーをやめるのか [サッカー]

なぜちびっこはサッカーをやめるのか。
わたくしはつまらないから、やめた。
小学生のころスポーツ少年団というのがあって、そこでサッカーをためした。
練習があって、ヘディングの練習をした記憶がある。
試合では左サイドバックスであった。
サイドラインぎりぎりの浮き球をボレーでうしろに蹴った。サイドラインをきらなかった。
その記憶しかない。
練習への参加はその日いちにちであったとおもう。
つまらないからやめた。

あのとき、いまのわたくしがなかまとしてちかくにいたとしたら、どんなふるまいをしただろう。
去る者は追う。
いまのわたくしならば、どうたいしょするだろう。
たぶんちびっこのわたくしのほうが頑固なきがする。
やっぱりスポーツ少年団をやめたであろう。

ちびっこがサッカーをやめる。
サッカーの本質であるゴールをあげるたのしさをたっぷりとあじわうことなく、去っていく。
わたくしがふたたびサッカーをはじめたのは30年後!!!であった。
たいがいはひととのわずらわしさのうちにやめていく。
サッカーはすきなのに、サッカーがきらいになる。
ほかのスポーツもおんなじであろう。


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チキンかつのおもいで [おもいでの札幌]

札幌にいたころは20数人といっしょの下宿にすんでいた。
月曜の夕食はきまってかつれつであった。
どこかくじらの肉ような、とんかつのような。
それまでたのしみのしていたし、おかわりもした。
それがチキンかつとしるまでは。
しってからはのどをとおらなくなってしまった。
なんていうことだろう。
ごはんも1膳。
まったくたべられなくなってしまった。
のこすのであるから、もったいない。
ほしいひとにはあげた。
おかずをのこすことは避けたかった。
せっかくつくってくれたのだ。
それに、わたくしのほかは平然とたべていた。
胃ではなく脳でたべている、とはいぜんからおもっている。
目でみ、鼻でかぎ、舌であじわう。
鼻が不調のときは酸いか甘いか塩加減なら舌でわかるけれど、風味はわからない。
鶏が苦手な原因はいまでこそないけれど、そのころは鶏をほふるときの映像がこころのなかにうかんでいた。
いまは良質な鶏のからあげはよくたべる。
北海道では、なぜかはわからないが、それをザンギと、しかもカタカナで表記していたのをおもいだした。


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